紀元前2500年頃、陶管(セラミック管)のルーツとも言える土管が誕生しました。エジプトにピラミッドが建設された時代です。
日本では「土管(素焼)」「陶管(釉薬をかけて焼いたもの)」が起源です。古くは6世紀前半に建立された飛鳥寺から土管が出土しています。
江戸時代の後期になると今の常滑市で土管の生産が始まります。
この土管は、土樋(どひ)とか水門(すいも)と呼ばれ、内径10cmほどの細いものが主流です。そして、その土樋は、どれも素焼きに近い焼きあがりで、もろい材質の土管でした。常滑では素焼きのような焼き物を赤物と呼んでいましたが、土樋は赤物製品だったのです。
明治に入り西欧の文明が日本に入ってくるのにともなって、焼き物の世界でも新しい製品が必要になってきました。
そして、土管もそのうちの一つでした。新橋-横浜間に始まる鉄道網の発達に伴って各地の灌漑用水は暗渠化が求められ、都市の発達は下水道の整備が重要な課題となってきたのが明治時代です。この国の近代化によって需要が増大した土管をいち早く大量に生産したのが常滑でした。
汐留発掘現場平成12年度に発掘調査が終了した東京都の汐留遺跡で出土した土管を紹介します。
汐留遺跡は江戸時代には仙台藩や龍野藩の屋敷があった場所です。しかし、明治になって、ここに新橋駅が建設され日本の鉄道史の大ページが始まりました。
そして、この昔の新橋駅に関するさまざまな施設が発掘調査によって明らかになり、各種の遺物も出土しました。
今回の展示品の土管もその出土品の一部で、東京都埋蔵文化財センターが調査後にその保管が困難になったことから常滑市民俗資料館が長期借用という形で保管する事になった資料です。
明治5年ころから明治30年代までの土管で、多くの土管に刻印が押されており、製造工場の判明するものも少なくありません。また、外見を見ただけでは判別できませんが、三河の高浜周辺で焼かれた土管も含まれています。
すでに100年を越える年数、地中にありながらほとんど製造時と変わらぬ状態であることに陶器の優れた耐久性を見る事ができます。
明治以降、土管は常滑窯業の主要製品として大量に生産されてきました。しかし、今日の陶管を取り巻く状況は非常に厳しくなっています。
出典:常滑市民俗資料館
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